トップページへ戻る
ケニスヘッダー
インタビューシリーズ 第10回

知は感性の上に
成り立たねばなりません
プロフィール
山田 卓三(やまだ たくぞう)先生
・1933年 長野県に生まれる
・1966年 東京学芸大学 卒業
・1975年 東京都立アイソトープ総合研究所遺伝研究室長
・1977年 国立兵庫教育大学教授
・1999年 名古屋芸術大学教授

理科教育の各分野で活躍される先生方を訪ね、全国の志を同じくする仲間たち、とくに21世紀を担う若い世代へ熱いエールを贈っていただくインタビュー・シリーズ。今回は、兵庫教育大学名誉教授であり、日本環境教育学会運営委員、日本科学協会理事(科学・文化事業委員長)など数多くの理科教育の分野に携わっておられる山田卓三先生です。 山田卓三先生は、「原体験教育研究会」主宰として日本の科学教育に多大な影響を与え続けておられ、興味深いお話をいろいろとお伺いしました。

(インタビュー場所 : 兵庫教育大学)

「昔、子どもはみんな動物でした」

―――まずは、山田先生の少年期の思い出をお聞かせ願えないでしょうか。
山田先生:  私は昭和8年に、信州八ケ岳で生まれました。豊平村という農村の貧しい家の五人兄弟の三男坊です。昭和初期の日本の農村は、基本的にどこも自給自足の生活でしたから、家に羊や牛や山羊なんかを何でも飼っていました。ダチョウとかアヒルもいまして、動物園のような生活でね。川へ行っては、魚をつかまえて食事の足しにしてました。鰻なんか持って帰ると誉められてね。蚕というのが唯一の現金収入ですから、「おかいこさま」と言いました。尊いものだから、「おてんとうさま」といっしょで、「お」と「さま」をつけて呼ぶのです。飢えと渇きが日常当り前にあって、その中で私たち子どもはみんな「動物」から始まったんですよ。いわゆる野生状態です。 動物には倫理、道徳がありませんね。善悪がないんですよ。ところが、いまの教育は「人間」からはじめてしまっています。その辺の違いがまず大前提としてありますね。我々の子どもの頃は、特に意識しなくても自然と子どもは動物から始まることができていました。まずお腹がすくんですよ。お腹がすけば、他人のものも盗みたくなる(笑)。だから、夜中にガキどもで畑に行ってこようかと(笑)。しかし、世の中も月夜の晩は獲ってもいいと、割合おおらかだったんですね。お墓のお供えもいただいていいとか。世の中のほうも違っていましたから。いまの世の中にそのまま適用することは難しいけれども、私たちの子どもの頃は動物から始まったんですよ。
―――信じられないような世界ですね(笑)
山田先生:  いまの世の中だと、絶対にやっちゃいけないことが、まあ昔だと世の中の方も目が届かないもんだから、楽に出来たんですが(笑)。ただ、我々ガキどもの側にも、節度というものがありました。たとえば西瓜を盗みに行っても蔓(つる)は踏まないとか、けっして一つの畑からは一個しかとってこないとか。むやみなことは絶対しなかったですね。柿は甘いかどうか、後ろを見てゴマがでているかどうか確かめてからとるとか。 意欲の原点は、飢えや渇きなんですよ。そして悪さをする時に、子どもというのはものすごく頭を使うんです。お腹がすいてたまらないから、お寺の池の鯉をどう
やったらとれるだろうかと、一生懸命考えるわけです。和尚さんがいない時に行こう。じゃあ、和尚さんがいるかいないか確かめるには、本堂に石を投げて和尚さんが「こらっ」と言わなければいないぞと(笑)。 どうやって鯉がとれるか。一升瓶の底を抜いて、ご飯つぶを入れて静かに沈めておく。すると鯉が入ってくる。鯉は狭いところで逃げようともがく。すると、どんどん中に入ってくる。じゃあ一升瓶の底っていうのは、どうやって抜くのか。紙をぬらしてニクロム線を巻いて電気を通すと簡単に抜けるんですよ(笑)。悪さのすすめなんて言うと、いまなら「けしからん」と叱られるでしょうが・・・。
―――山田家は、どんなご家庭でしたか?
山田先生:  父は岩波に勤めていました。岩波茂雄という岩波書店をつくった人が諏訪の人だったんですよ。父も岩波に勤めていて、島木赤彦や斎藤茂吉なんていう自然派の人たちが多くいました。植物のことなんかもよく知っていましたので、わけもわからず多くのことを教えてもらいました。私はいまの「詰め込み教育反対」に反対なんですが(笑)、3〜4歳の頃に覚えたことは75歳のいまになってもしっかり頭に残っている。理屈がなくてもすっと吸収できる9歳くらいまでに、叩き込めばいいと思うんです。たとえば、春の七草。アララギ派の歌人は、植物のこともよく知っているので、「せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ これぞ 七草」を歌として教えてもらいました。意味は全然わからないから、左の脳には入らない。でも右の脳に歌として入ってるんですよ。これが何のことかということは、やがて学校で習う。そうして左の脳に入っていく。これが知の構築です。私は「原体験」という教育をやっていますが、体験というのがすべて入り口なんです。原体験というのは、触覚・嗅覚・味覚などを通して自然から得られる体験で、それ自体には目的や意図はありません。だから、結果的に人生において役に立つ体験もあれば、一生役に立たない体験も含まれる。どの体験がどのように生かされるかは、その後の人生によって異なります。しかし、原体験が少なければ結びつける選択肢が減り、身につく知恵も少なくなってしまいます。これは自然科学や文化や芸術など、あらゆる領域に共通していることで、原体験というのは人間としての礎となるものなんですね。

「ただ英語を使えば、国際人だと思っているんですね」

―――勉強はよくできる少年だったのでしょうか
山田先生:  勉強はできなかったですねぇ(笑)。なにしろ悪さしかやってないわけですから。中学は一度試験に落ちて、翌年に
高等科一年で中学に入りました。信州の貧乏な家の倅がこの先食っていくには、とにかく上級学校くらい行っておかないといけないということでしたが。でも家には学校に通うにも経済的な余裕がまったくありません。 高等学校から進学するときも、授業料免除の学校では、師範、陸士海兵、気象学校しか選択肢がなかったんですね。私が、最後の師範学校世代で、途中から学校名が東京学芸大学にかわりました。実家からの仕送りがまったくないものですから、アルバイトをしてなんとか生活をして学校へ通いました。ちょうど朝鮮動乱がおきて、景気がよくなって夜のアルバイトなんかをやって、随分助かりましたね。
―――大学では教師を目指されて?
山田先生:  大学でもあまり勉強はしなかったですねぇ(笑)。植物が好きだったので山には本当によく行きましたが。恩師の牧野富太郎先生の奥様の実家が山梨県にあって、遊びに行かせて頂いたことも若い頃の思い出のひとつです。新制中学校の教員になろうと教員試験を受けましたが、勉強してないもんですから落ちました。試験っていうのは問題だねぇ(笑)。そしたら、叔父の友達から、国際基督教大学が三鷹市にできて生物学をはじめるから研究室に来ないかと誘われまして、初めは無給の研究員という資格で、後にこれでは食っていけないということで助手という形になりました。とにかく植物が好きではありました。学問的な知識なんてものではなく、これは食べたら毒だとか、これは美味しいとかそういう知識だけは秀でていましたが、その程度のものでした。国際基督教大学では、篠遠先生(注)の鞄持ちのようなことをしましたが、この篠遠先生の奥様も大変おおらかな人でした。篠遠先生は、ドイツ語や英語など語学が堪能で、いろいろ国際的な会議に出ておられましたが、残念ながら発音がまずくて英語なんかは何にも通じないんですね。奥様の方は、日本語しかお話になりませんが、「おいしいですねぇ」「ありがとう」なんておっしゃる言葉が一番よく通じるんですよ。コミュニケーションは言葉ではない、心だと学びました。いま教育の世界では、さかんに国際化なんてことを言うでしょ。私も五年前から兵庫県の特別非常勤講師というのをしておりまして、高校の国際学科なんてところに行きますが、彼らは日本のことを何も知らない。武士道も知らないし、茶道も知らない。知ろうともしない。それでただ英語を使えば国際人だなんて思ってるんですね。

(注)篠遠先生
「篠遠 喜人(しのとお よしと)」(1895〜1989) 東京大学名誉教授、国際基督教大学学長、遺伝学者、科学史家

「えらいところへ来たなあと思いました」

―――そのまま国際基督教大学で研究を?
山田先生:  当時、福竜丸事件※というのがおきて、東京都立のアイソトープ研究室ができまして、遺伝子研究をやるということになり、今度はそこのキャップに誘われてついて行きました。私は粘菌の発生遺伝学の研究をしていましたが、その後新しく出来た兵庫教育大学に来たんです。新しい理科教育の運動がさかんに行われていた時期で、私も教育には興味を持っていました。母が代用教員だった影響もあるかもしれませんし、自分が師範学校卒で教員免許を持っていたことも原因のひとつかもしれません。今から30年前のことです。当時の兵庫教育大学というのは、周囲5キロ四方何にもない山の中に作られた学校で、長靴を履いてこないとたどりつけないような、まともな道も何にもないところでした。えらいところへ来たなあと思いましたね(笑)。

※1954年3月1日、マグロはえ縄漁船「第五福竜丸」が、太平洋ビキニ環礁でアメリカの水爆実験の“死の灰”を浴びて被災した事件
―――原体験教育というのは、その頃に始められたのですか?
山田先生:  昭和60年前後に「うれしの台教材開発研究会」というものを立ち上げました。実験・観察を通して行う「うれしの方式」というモジュール的な教材開発を行ったのです。「うれしの」というのは大学の所在地が「嬉野台」という地名だったためです。この方式は生物体をモデルにしたもので、細胞が集まって組織を作り、組織が集まって器官を作る。そして器官系さらに個体をつくるといった構造を考えたものです。細胞に相当する教材は一枚の実験・観察ワークシートで同じようなシートを集めユニットとしてこれらを組み合わせることで組織・器官に相当する単元を作っていました。しかし、この教材を試行してみて、子どもたちに観察・実験以前の体験が決定的に欠けていることに気づきました。自分達が体験してきたことを、いまの子ども達も知っているだろうと、いきなり知の構築から始めようとしたのですが、これは砂上の楼閣だとわかったのです。感性の上に知が成り立たなければどうにもならない。まず第一に動物的な体験がなければどうにもならないというのがあったのです。そこで飼育や栽培を基礎体験、それ以前の体験を原体験としてこの基盤である原体験を考えてみようと、1989年に名称を「原体験教材開発研究会」としてスタートして、その後、理科教材開発だけでなく生きる力も含めた現在の教育に多く通じているところもあることから「原体験教育研究会」と改称し、現在に至っているのです。

原体験教育研究会 http://www.proto-ex.com/gentaiken/gentaikenhome.html

「感性の上に知が成り立たなければ」

―――原体験というのは、理科だけでなく全ての教育に通じるのでは?
山田先生:  結局は信号伝達のキーのシナプス(神経細胞間接合部)を形成しないと、どうにもならないんですよ。感性を育てないとどうにもならない。きれいだっていうことを、まずやらなけりゃいけない。もっと言うならば、ストレスに強くならないといけない。だから、一番大切なものは体力です。いまの子どもは、幼い頃から冷暖房完備の中で育っているから、クーラーとヒーターがなければ、温度変化に対応していけない身体になっている。その次に意欲。意欲の原点は飢え渇き、そして悪い環境なんです。何とか悪い環境から脱出しようとして努力するんです。でも、今の時代そんなこと言っても、無理でしょう(笑)。しかし、無理だからあきらめるというのではなくて、昔の良さを今様にどうするかを考えることが大切ですね。小学生を集めて自然体験をしようと、飯盛山という山へ登る教室を十数年やりました。朝5時に起きておにぎりと水を持って山を登るんです。子ども達は、こんな不味いおにぎりいらないって捨てるんですよ。それを黙ってみている。そのままどんどん山を登っていくと喉は乾いてくる。自動販売機はない。お 腹はすいてくる。自分が捨てたからおにぎりはない。うわぁーとなってくるんです。そうして、お昼時に生ぬるい水を飲むと、水ってこんなにおいしいのか。おにぎりってこんなにおいしいのかということをはじめて感じるのです。体力と意欲と感性。感性の上にはじめて知は成り立ちます。感性がなくて、知だけを身につけてしまうと、いま世の中でおきている様々な事件を引き起こしてしまう人間になっていくのです。
―――最後に、若い先生方や教員を目指す学生に向けて一言お願いします。
山田先生:  教師は子どもが好きで教えることが好き。それが一番伝わるんですよ。 諏訪中学の先輩に偉い先生がいて、教科書は化石だと言われました。 教科書に書いてあることは読めばわかる。イギリスの首都はロンドンだと、 書いてあることは化石だと。だから外へ出て実験しようと。そして教育というものを、 川を渡ることに例えられました。川を渡るのに、生徒を背負って渡ってはいけない。 教師もいっしょに川に入って、いっしょに水に濡れながら手をひいて渡るのだと。 ところが、いまの教育は川に橋をかけて車に子どもを乗せて渡っている。教師は教えた気になっているけれども、 子どもは川の渡り方をまったく学んでいない。 今の時代、理想的なことばっかり言ってもしょうがないんですが、 理論なんていらないから、とにかく教師が教えることをまず楽しむことですね。
―――生き方や教育の原点とは何か認識させられました。示唆に富んだお話どうも有難うございました。


non object




PAGE TOP