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ケニスヘッダー
インタビューシリーズ 第9回

子供には自分の夢実現に向かう
意欲を持たせたい
プロフィール
曽我部 國久(そがべ くにひさ)先生
・1943年 愛媛県に生まれる
・1966年 愛媛大学文理学部理学科卒業
・1978年 島根大学教育学部助教授
・1986年 アメリカ・アラバマ州立大学客員教授
・1989年 島根大学教育学部教授
・2002年 出雲科学館館長

理科教育の各分野で活躍される先生方を訪ね、全国の志を同じくする仲間たち、とくに21世紀を担う若い世代へ熱いエールを贈っていただくインタビュー・シリーズ。
今回は大学での教育研究の傍ら、出前実験教室のパイオニアとして北は北海道から南は沖縄まで、全校生徒4人という小規模校から1学年110人を超える大規模校まで、全国500校を超える学校を訪れておられる曽我部先生です。生徒や教員、保護者の感動や興味関心を引出し続け、さらに出雲科学館の館長として、来館者の98%が「理科の授業は良くわかるし楽しい。理科が好きになった」という「感動と夢を与える授業」を展開しておられる先生にいろいろとお話を伺った。

(インタビュー場所 : 出雲科学館 )

「どうして1+1が2になるのか、なかなか飲み込めなくて」

―――まずは、曽我部先生の少年期の思い出をお聞かせ願えないでしょうか。
曽我部先生:  私は愛媛県の新居浜で育ちました。小さい頃は終戦後で、銅を拾い集めてお金を稼ぐなんてこともしていましたが、恥ずかしながら私は小学校に入ってから大学卒業まで、試験以外で鉛筆を持ったことがないんですよ(笑) 小学校に入ったときに、私は自分の名前が書けなくてね、それで学校を休んだことがあるんですよ。それ以来、鉛筆を持って勉強するということが嫌いになりまして(笑) 学校に行くのは楽しくて皆と色々なことをするのはできるのですが、文字を書いて勉強するというのは苦手でした。父親は社会科、母親は国語の教師で、幼い頃から歴史は大好きでしたが、小学校時代の私は、1+1は1というように、論理思考の全くできない、見たものだけを信じるという感性だけの人間で、どうして1+1が2になるのかなかなか飲み込めなくて、算数も好きになれませんでした。大きさの同じ団子が2つあっても、くっつければ1つになるじゃないかと(笑)。 ところが、学校の先生というのはすごいもので、同じ大きさで同じ重さのものを1と決めてるから、1+1=2になる。1、2、3、4という数字の意味は、ひとつひとつ数字が積み重なってあるんだという事を教えてくださったのですね。自分が目指す100にいきなりは行けないけれど、1、2、3、・・・と積み重ねていくことで、いつかは100にたどり着けると。トップレベルにいくには、ひとつづつスキルアップしていくしかないのだと、そんな事がじんわりと先生の教えの中から私の身体の中に染み込んでいったように思います。
―――そんな曽我部少年は、野球に相当のめり込んでおられたとか?
曽我部先生:  小学校6年生くらいから野球を始めて、レギュラーになって試合に勝たなくてはいけないというぐらいから、なんとなく自分の夢というものをつかみ始めたように思います。野球で身を立てようかという気持ちもありました。ところが高校野球をやっていて、当時浪商に尾崎というすごい投手がいて、今の松坂君よりもすごかったと思いますが、僕らは彼
雲科学館ロビーにて
になで切られてすごすごと帰って来るという経験をしまして、この世界には自分よりもすごい奴がいるなぁと思って方向転換しましたね。高校生ですから、自分の将来というものはまだまだぼんやりした中にあったわけですが、野球をやっていく中で、私の場合は自分なりの哲学が少しづつ固まっていったように思います。たとえば野球ばかりやっていると、野球でしか使わない筋肉だけの人間になってしまう。これでは駄目だとね。海外のスポーツ選手は、夏と冬で違う競技をして、バランスの良い身体を作り上げると聞いていました。東京オリンピックでヘーシンクに神永が負けたのは、日本の選手は年がら年中柔道の練習しかしないから、同じ筋肉しかつかない。同じ筋肉を持つもの同士でいつも戦っているから、ちょっと違った筋肉を持った相手がでてくると、まったく対応できないことなる。人間にも同じ事がいえると思います。自分の専門分野以外のところからも学ぶという、そういう人間の鍛え方があるべきだとね。
―――大学ではどんな生活を?
曽我部先生:  大学では理学部で化学をやっておりましたが、専らアルバイトに明け暮れまして(笑)。自分の哲学に従って、理系とは程遠い旅行ガイドをやりました(笑)。この時の経験が今にして思えば、自分の幅を広げるチャンスでしたし、多くの人と話をする中でかなり磨かれていったと思います。アルバイトをただ単に金儲けに行くと考えるのか、自分がこれをやりたいと考えた時に、授業料を払って本来なら勉強すべきところを逆にアルバイト料をもらって勉強できるのだと思うと、おのずとそこへ入っていく時の意気込みが違うわけです。お客様と接することで人に喜んでもらえる事に自分も喜びを感じて、そうなるとお客様からも信頼されて益々楽しくなり、社員の方よりも契約を多くもらったりしまして、サービス業というものについてかなり多くのことを身につけたように思います。それが大学を出て研究者になった時、また教育者になった時、あるいは大学で学生サービスはどうあるべきかを考える時にかなり色々な形でプラスになりましたね。
―――大学院でもずっと研究畑におられた先生がなぜ教育畑に?
曽我部先生:  教育学部から声がかかったとき、理学部でやってきた自分が教育にいっても仕方ないよという気持ちが正直ありました。それで二の足を踏んでいたのですが、話をもってきてくださった先生が一言「いままで理学部におったのだから、教育も自分の幅を広げるのにいいんじゃないか」と言われたのです。私は色々違う分野で学ぶことの重要さを身をもって知っていたので、教育畑に行っても自分はアウトサイダーだけど、就職もない時代でしたから、とりあえず腰掛のつもりでやってみようかなと(笑)。そんな気持ちで教育学部に入りました。ところが実際に教育学部に来てみると
出雲科学館でのイベント
、いままでより施設は悪いし、お金も無いのです。そこで自分なりの意義を見つけたんですね。理学部でやっていたのは「ものづくり」ですが、例えばどんなに優れたロボットを造ったとしても、それを動かすのは人間です。そこに魂を入れるのは人間だと。じゃあこれからは人造りをしようと。でも3年仕事をしてもやっぱり馴染めないんですね(笑)。これじゃあいけないと思っているところへ、アメリカのアラバマ大学に来ないかと誘われて、もう一度研究畑に戻ったのです。放射線の研究でした。ところがたまたまそこで高校生のために実験をやってくれと頼まれて、ヘリウムを使って声がかわるという実験をやりました。いまから27年前のことです。日本ではまだ理科離れという言葉すらなかった頃です。この実験を子ども達がすごく喜んで、「理科ってこんなに面白いんだ」といって、不登校だとか16歳で妊娠だとかいっていた子達が毎週実験を楽しみに来てくれたのです。アメリカの新聞にも取り上げられたりして、液体窒素でバナナを凍らせたりする実験も、いまではTVで当り前にやっていますが、それらを最初にやったのです。しかし、当時はやっぱり自分としては研究の方が大切なので、子ども向けの実験からはまだまだ距離をおいていきました。

「左眼を失明しても、右眼だけでできる仕事があるじゃないか」

―――そういう経験の後に、日本に戻られて何をしようと
曽我部先生:  私に大きな転機が訪れました。帰国後も私は研究者として燃えていましたが、ある時、事故で左眼を失明してしまったのです。3ヶ月闘病生活をして、6ヶ月研究現場を離れて、最先端の研究から自分は遅れてしまっているという焦りがありました。そんな時、ある人から「左眼を失明したから不自由だと思うので、最初から右目しか無いと思えば不自由は感じない」と言われまして、研究者としての道ばかりでなく教育者として進むべき道があると発想の逆転ができるようになりました。もう一度アメリカから声がかかり、2年間必死で働いて業績をあげて、チェアマンのポストも用意され永住しないかと誘われたのです。そのとき自分の子どもに言われました。「お父さんの仕事で自分の人生を狂わされた。お父さんとお母さんはアメリカに住めばいい。自分は日本に帰って大学へ入りたい」と。その時、「ああ家族のために、子どものためにと思ってやってきたつもりでいたけれども、実は自分の好きなことだけやって子どもや家族を犠牲にしていたんだなぁ」と気付いたのです。眼を怪我したとき自分を支えてくれたのは家族だったんだと。それで、これからは自分の好きなことだけではなく、日本に帰って家族や他の多くの子ども達のためにがんばろうと決意したのです。
―――具体的にはどのような活動を
曽我部先生:  科学の祭典は後藤道夫さんをはじめとして、物理の先生方が一生懸命取り組んでおられて、日本国内のあちこちで子ども達の理科教育への取組みが動き始めていました。しかし大学の連中は、相変わらず皆自分の研究だけが大切で、子ども達のためになんて言っても誰も動こうとはしませんでした。それでひとりで出前実験授業を始めたの
館長室にて
です。平成元年のことです。当初は県内の高校生向けに出前実験をはじめました。ボロ車に実験装置を積んで廻りました。教育委員会に行って、支援をお願いしましたが、「ひとつの教科のためだけに支援はできない」と断られました。「体育には国体があり、立派な体育館があり、運動場があるのに、理科には理科室しかないじゃないか、しかもまともに実験できる器具も揃っていないじゃないか」と訴えましたが駄目でした。大学のオープンキャンパスを始めたのもその頃です。当時は学部紹介ビデオを高校に流しておけば勝手に生徒が集まってくるという考え方でしたが、実際にその学部の先生や学生が自分のやっている実験をやって見せる方がはるかにインパクトがあるし、それによって良い学生が集まってくるわけです。国立大学だから定数確保は問題ないわけですが、質のいい学生を集めるために何をすべきかと考えて実践しました。いまや全国どの大学に行ってもオープンキャンパスで実験を見せるようになりましたね。
―――先生が、常にパイオニアとしてやってこれたのは何故でしょうか?
曽我部先生:  私はどこにいても常にアウトサイダーだったからでしょう(笑)。もともと研究者の発想を持って教育を見ていますし。大学にいても、アメリカで学んだ企業的な発想で大学の運営や学生サービスを考える。浮き草人生な訳ですが、ただ流される浮き草ではなく、しっかりと自分の意志を持った浮き草なのです(笑)。そこにいる以上は、その場を最良の場にしようと改革します。しかし、やり方を変えることは必ず痛みをともないます。誰かが作ってくれた道を歩くほうが楽な訳ですから、誰だって変革を嫌がる。最初の一歩を踏み出すのは、相当の覚悟が必要なのです。だれもやらないからやる価値があり、イバラの路を切り拓くことに意義を見出していたからでしょうね。

「流した涙の数だけ成功がある」

―――いまも出雲科学館で「感動ある授業」を実践しておられるわけですが
曽我部先生:  子ども達に直接発信しているのはもちろんですが、私は小・中学校の先生方に子ども達の目を輝かせて2時間も3時間もトイレにも行かずに実験に集中している姿を見ていただきたいと思っています。子ども達の表情や歓声をあげる姿を見ることによって、「あっ、こういう授業があるんだ。こういうことをやれば子どもは喜ぶんだ」ということに教師が気付くことで、日々の生活の中に工夫が生まれる。感動ある授業がなぜできないかを安易に結論付けることは非常に困難ですが、強いて言えるとすれば、教員自身が感動したことが少ないために感動をうまく伝える工夫をしなくなっていることがひとつ。その一方で、無駄なことに力を注ぎ過ぎていることが原因ではないかと思います。教え過ぎというのでしょうか。教えることを止める発想に立って授業を組み立ててみれば解決の糸口が見つかるような気がします。
―――最後に、若い先生方に向けて一言お願いします。
曽我部先生:  多くの教員は、子どもに知識を「教える」ことが全てだと信じ、子どもを「育む」ことに気付いていないように感じます。教育は子どもの自立を促し、子ども自身の夢を育むことを支援することが本筋だと思うのですが、いまは「教」と「育」がアンバランスになっているのです。教師はすべて完成を求めがちなのです。教えたことは全て覚えて欲しい。だからこれはこうですよ、こうですよと、見せてしまう。考えさせる時間を作らない。そうすると子どもは楽です。何も考えなくて済むし失敗もしない訳ですから。人間は、小さな頃に失敗をたくさんして、悔し涙をいっぱい流すことが将来につながるのだ、流した涙の数だけ成功があるのだと教えてやって頂きたいと思います。子どもに自分の夢実現に向かう意欲を持たせれば、黙っていてもそのための努力をするものです。夢獲得に向かう背中を押すことが教師の出番なのです。
―――先生には色々な観点からのお話しをお聞きし感銘を深くしました。どうもありがとうございました。


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