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ケニスヘッダー
インタビューシリーズ 第6回

教師は子供の良いところを
見つける天才でありたい
プロフィール
山田 善春(やまだ よしはる)先生
・1955年 島根県浜田市に生まれる
・1980年 大阪市立大学 卒業
・1996年 オンライン自然科学教育ネットワークを設立し世話人となる
・2001年 科学教育ボランティア研究大会実行委員長
  大阪市立高校教諭

理科教育の各分野で活躍される先生方を訪ね、全国の志を同じくする仲間たち、特に21世紀を担う若い世代へ熱いエールを贈っていただくインタビュー・シリーズ。今回は大阪市立高等学校で教鞭をとる傍ら、理科教育の危機を救うべく自らが世話人となってインターネットを活用した科学教育サークル「オンライン自然科学教育ネットワーク(通称ONSEN)」を立ち上げ、常に日本の理科教育に新しい刺激を与え続けている山田先生にお話を伺った。全国各地で出前実験教室を実施し大好評を得て、さらに科学教育に関わる全国のボランティアが集まる「科学教育ボランティア研究大会」を企画し実行委員長を務めながら、人気テレビ番組「探偵!ナイトスクープ」では「おもしろい理科の先生」として視聴者に科学を身近に感じさせる解説など多方面で活躍されています。

「学校の先生の話を聞いとけ。目を見て聞いとけ」というのが親父の口癖

―――まずは、山田先生の少年期の思い出をお聞かせ願えないでしょうか。
山田先生:  私は出身が島根県浜田市です。明治の初めの頃に祖父が海運業界に身をおきまして、浜田というのは北前船の寄港するけっこう栄えた港町で、親父も海軍にいっておりましたし、親戚関係にも船乗りや海関係が多くて、少年時代から海に対するあこがれはありましたね。海の潮騒を聞いて育ちました。かなりワルガキで、近所の畑を荒らし廻ったりして。翌日、昨日どこかで畑荒らしがでたらしいなんて聞いても一切黙秘(笑)でも畑ってねぇ、きれいに耕してある上を歩くのって気持ちいいもんですよ(笑、ごめんなさい。40年前のことなんで時効ですが、今思い出すと近所のみなさんにご迷惑をお掛けしたと反省しています)。あと、がけからよく飛び降りて遊びました。子供のころ、よく飛ぶ夢を見たんですが、走るのが好きでね、手を広げて走っていると揚力を感じて飛べそうな気がしたんです。おもしろかったですねぇ。子供のころ、汽車の窓から手を出してどの角度に手をおくと一番飛べそうかなんて試してました。あっ、良い子の皆さんは危ないからやめてくださいね(笑)。僕は大阪で言うところのイチビリなんでしょうね。好奇心が人より旺盛でした。世間でいう標準的な道徳的価値観からすると間違っても良い子ではなかったと思いますが、両親から勉強しろとも言われなかったし、僕は勉強しろと言われるとやる気をなくすタイプでしたから。まぁ、言われても言われなくても、どっちにしてもしませんでしたが(笑)。ただ、「学校の先生の話を聞いとけ。目を見て聞いとけ」というのが親父の口癖で、先生の話を聞いておけば宿題なんかごまかしてやらなくても、試験はなんとかできましたね。勉強はいまみたいに難しくなかったし、近所の兄ちゃんやお姉ちゃんに遊びを教えてもらう中で人間関係の基礎を自然と身につけたり、いまみたいに子供用なんてものは何一つありませんから、大人の道具を使って遊びました。自転車も三角乗りから覚えたし、キャッチボールのグローブもいきなり大人用のものではじめました。学校から帰るとランドセルをなげ捨てて、子供だけの世界でみっちり体を使って遊んでいました。大人は仕事で忙しいから基本的に子供はほったらかしで、トムソーヤのような充実した毎日で最良の環境でしたね
―――理科の世界への興味は、どんなふうに?
山田先生:  実家の近所にモノ作りをやっているところがたくさんあったのも影響していると思います。右隣が大工の棟梁、その隣がお米屋さんで豆腐やアメ湯なども作っていました。その裏がいつも硫黄の臭いが立ち込めていた溶鉱炉のある鉄工所。左隣が船のエンジン関係のお店で、その隣が自動車修理工場。向かい正面が河豚の味醂干しの工場、その左が板金屋、右が缶詰工場などなど。僕にとっては隣近所で遊んでいるだけでそのまま理科の体験学習をしているようなものでした。高校では理数科に進んだのですが、きっかけは小学校5、6年の時の担任が理科専科の先生だったのです。僕の掃除担当は理科室で、理科準備室が大好きでした。わけのわからない器具を見て「これはなんに使うんだろう」なんて空想しながら掃除するんです。いつもピカピカに掃除してましたね。僕の記憶にある小学校の風景は、自分のクラスの教室じゃなく理科準備室なんです。SF小説も好きになりまして、H・G・ウェルズなんかも読みましたが、ショートショートの星新一なんかが好きでよく読みました。ラジオドラマで想像する面白さを知ったり、テレビで「ウルトラアイ」とか面白い番組があったりして、そんなこんなが重なって、理系の世界への興味が自然に沸いてきたように思いますね。
―――教員をめざそうと思われたきっかけは?
山田先生:  大学は理学部物理にいました。僕には中学、高校の頃くらいから根源的な問題に関して自問する癖がありまして、「いつか僕の存在がなくなるときがやってくる。何で僕はここにいるのか。僕はいったい何なんだろう。そして、この僕をとりまいている宇宙とはいったい何なんだろう」とね。かっこつけると哲学的な苦しみみたいな問いかけを物理で学びたいという思いがありました。だけどその問いかけはあまりにも僕には重すぎて、一時期悩んでどうしょうもなくなったりした時期がありました。「どうせなくなるなら、何をやったってやらなくたっていっしょじゃないか」とね。そんな状態
から僕を救ってくれたのが、実は教育実習だったんです。終戦後、親父が中学校の教員をしていた影響もあると思います。故郷の浜田市での教育実習のときの感動体験、そのときの生徒諸君のおかげで僕は教師になろうと決めたんです。僕を担当してくださった先生が理科の先生なんですが、実家の隣の家のおじさんで「おぉ山田君嬉しい」って、一日だけ教えてくれてあとは二週間出張してしまったんです。あとは任せたと(笑) もうひとつ吹奏楽部と合唱部の顧問の先生が、これまた高校時代の後輩のお父さんで「おぉ山田君よう来てくれた。嬉しい」って、こちらも出張してしまったんです(笑) 僕はいきなり担任と吹奏楽部と合唱部の顧問を二週間引き受けざるを得なくなったんです。給食を生徒諸君といっしょに食べたり、昼休みにバレーボールをやったりして、最終日の別れの時に泣いてくれている生徒を見て僕もあいさつの声が震えました。後日、そのときの生徒諸君がお金を出し合って缶詰をプレゼントしてくれましてね、これは何だと聞いたら「先生の悲惨な大学の下宿での食生活を、これで何とかしのいでください」ってね。そういう生徒との交流があって、大学院に進もうかとも考えましたが、僕は教師になることを決意したんです。
―――実際に教師になってみていかがでしたか?
山田先生:  教職に就いたのが故郷ではなく大阪でしたから、すごいカルチャーショックでしたね。違和感と言うのか、通じないんですよ。大学が割合インターナショナルな場であったのに対して、赴任校は大阪弁以外で話をすると言葉が通じない異国におくりこまれたような感覚でした。最初の物理の授業で、生徒に頼むから大阪弁でしゃべってくださいと頼まれたりして。僕は島根県出身で、大阪弁はしゃべることができないし。異文化でした。右も左もわからない。一年目は本当に大変でした。ところが、僕は何のために教師になったのかという問いかけを持って生徒たちと接していると、彼らの寂しさとか辛さが見えてきたんですね。二年間担任したんですが、壁にぶつかっていた生徒との関係が、あることをきっかけに氷が解けるように子供たちが僕を見直してくれたんです。たいしたことではないんですけど、ある生徒が他の先生の授業中におしゃべりをしていて叱られて「お前に単位は認めない。教室からでていけ」と言われて廊下を歩いていたんですね。僕がたまたま見かけて声をかけて、お前授業中に何をしとるんやと。わけを聞いて、進級したいかと聞いたら「したい」。悪かったと思うかと聞いたら「思う」。謝れるかと聞いたら「謝れる」と言うから、授業が終わってから二人で謝りに行ったんです。この生徒だけが悪いのではなく、私の指導力不足のせいでもありますので許してやってくださいと。本人も反省してますと。僕は本気でそう思っていたので、当たり前だと思ってやったのですが、それを機会にクラスの荒れている生徒ややんちゃな生徒が僕を信頼するようになったんですね。共感して何か自分にやれたらという思いで動いていると、当たり前ですがそれはちゃんと伝わって応えてくれるっていう、僕はその時、教師業の奥深さを知りました。
―――ONSENを作られたきっかけは?
山田先生:  僕は教師って何かなといつも考えているんですが、教師というのは子供たちの幸福、それも目先の幸福ではなく将来の幸福の製作にたずさわる仕事だと今まで教師をやってきて思うんです。そういう気持ちで、さまざまな理科教育に取組む中で、大阪市の理科研究会の部長をやらせてもらっていた時、ちょうど学習指導要領が変わる時期で理科がどんどん削られていったんです。僕は子供たちのためには、理科教育はむちゃくちゃ重要だと思っています。日本をつくってきた原動力であり基盤である。にもかかわらず、どんどん削られていく。おかしいじゃないかと。ところが同僚の先生たちに言うと、もうあきらめてるんですね。「そりゃ無理やで。学習指導要領でそう決まったら、教員が何を言っても難しいやろ」とね。しかも若手の教員があきらめている姿が非常にショックでした。文科省に働きかけをしても、門前払いでした。ある時言われたんです。「山田さんは怖くないよ。でもね世論は怖い」と。多分に僕への励ましの意味も込めて言われた言葉だと解釈しているのですが、世論というのが大きなキーワードでした。そうだ、教育というのは子供たちの幸福のためにあるものなんだから、子供たちを取りまくさまざまな人たちに呼びかけて、手を取り合ってやっていこう。教育には玄人も素人もない。子供を持つ親はみんなある面で教師なわけですから。親でなくても、近所のお兄ちゃんやお姉ちゃんだって教師です。そんな時、たまたまインターネット時代が到来したのです。僕はニフティから入ったんですが、同報通信というのを知りまして、これは同じテキストを一気に多くの人に送ることが出来る。辺境と中央をつくらない。同時コミュニケーションができる。毎日、研究大会をやっているのと同じことです。これがあれば、いろんな職種の人とつながれると思い立ったのです。教師という同じ職業の人間だけのかたまりではなく、もっと広範な力を結集したほうが新しいものを生み出せる。僕はパソコンに詳しくなかったので、同じ理科研究会にいた四天王寺高等学校の檀上慎二さんを誘ったのです。日本の理科教育を変えよう!!とね。いまから10年前です。ONSENは産声をあげました。千円もあれば歩けなくなるくらい酔っ払える昭和町にある大衆居酒屋での出来事です(笑)。

※ONSEN(オンライン自然科学教育ネットワークの略)
Onsen HP http://www.onsen-web.org/

「ボランティアの素晴らしさを伝えたい」

―――これから山田先生が目指していくことは何でしょうか?
山田先生:  まず僕がやろうとしていることは、日本のボランティア教育です。教育には、学校教育、社会教育、家庭教育の三つがあり、普通は学校教育が真ん中にあると言われますが、僕は違うと思っています。中心にあるのは家庭教育です。誰よりも子供の幸福を願っているのは親です。家族です。それを忘れた学校教育になっているのではないかと感じています。実験教室のボランティアに行くと、多くの親は受験とか成績なんかとは一切関係なく、愛するわが子に科学の体験をさせたいという切実な思いを持っておられる事がわかります。そして、この家庭教育をサポートできる力として、今後ボランティアが果たす役割は極めて大きいだろうと思っています。
―――第1回の科学教育ボランティア研究大会の会場を、京都国際会館に設定された意図を聞かせてください。
山田先生:  日本ではボランティアに対する認識がまだまだ低くて、社会的にも軽く見られますが、本当は尊いことなんです。素晴らしいことなんです。「ボランティアだから」というおかしな引け目を拭い去りたい。そういう意味を込めて、科学教育ボランティア研究大会(科ボ研)を格式ある京都国際会館で開催しました。おかげさまで、科ボ研は今年で六年目になりますが、全国から科学教育のボランティアに関わる多くの人に参加を頂いて、毎年師走の京都の恒例イベントになっています。規模が大きくなってきたこともあり、現在は場所を国際会館から別の会場に移していますが。欧米では働き盛りの年代でも、50%以上が土曜日、日曜日にはボランティアに出かけています。日本人は益々「自己中心的」になっていますが、「公」という観念の素晴らしさに日本人みんなが気付いて欲しいなぁと思っています。

※ 科ボ研HP:http://www2.hamajima.co.jp/~sevrc/
―――若い教員やこれから教員を目指す若い世代に向けて一言お願いします。
山田先生:  「教学半」という言葉があります。教えることと学ぶことは半分半分だということです。教えることは学ぶことであるという。これは重い言葉です。しっかりと見つめていれば、どんな子供も必ず良いところを持っている事に気付きます。荒れている子でも素晴らしい面を必ず持っている。吉田松陰という人は、どんな人に対しても、その人の良いところを見
抜いて、教えを請うことができる名人だったと言われています。あなたのここが素晴らしい、私に教えてくださいと言えるんですね。人間、相手の悪いところはすぐに見つけます。悪く言うのは簡単です。でも、「悪い」子の良いところを見つけるのは難しい。友達みたいな関係になったって、決して見えてはきません。教師は子供の良いところを見つける天才でありたいと思いますね。
―――多方面にご活躍中で多忙な先生にお話を聞くことができました。心に響くお話、どうもありがとうございました。


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