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ケニスヘッダー
インタビューシリーズ 第4回

「理想の授業、理科教育への
熱き想い」を語る
プロフィール
滝川 洋二(たきかわ ようじ)先生
・1949年 岡山市に生まれる
・1974年 国際基督教大学(ICU)大学院博士課程修了
・1979年 ICU高校物理教員
・1999年 2000年 イギリスに留学し理科カリキュラムを研究
・2006年 東京大学教養学部客員教授(専任)
  NPO法人ガリレオ工房理事長
NPO法人理科カリキュラムを考える会理事長
・2010年 東海大学教育開発研究所教授

理科教育の各分野で活躍される先生方を訪ね、全国の志を同じくする仲間たち、 とくに21世紀を担う若い世代へ熱いエールを贈っていただくインタビュー・シリーズ。今回は、国際基督教大学高校で教鞭を執りながら、NPO法人ガリレオ工房理事長として日本全国を飛び回り子供たちに科学の楽しさを伝え、さらにNPO法人理科カリキュラムを考える会の理事長としても活躍しておられる滝川先生にいろいろお話を伺った。

(インタビュー場所 : 国際基督教大学高校)

僕の場合は、実験が面白いからとかじゃないんです(笑)

―――まずは、滝川先生が物理の世界へ進まれた経緯を知りたいのですが、少年期から青年期にかけての思い出をお聞かせ願えないでしょうか。
滝川先生:  小学生の頃から理科はもちろん好きではありましたけれども、そんなに実験をよくやっていたというわけではありません。僕が理系に進むと決めたのは高校の時です。中学生の頃は、楽器の演奏や指揮者にも憧れていました。写真も楽しかったし、体操も好きだったので体操部にいました。それがちょうど高校生の時、朝永振一郎さんがノーベル賞をとられて、そのとき湯川秀樹さんが新聞記事で「空間とか時間はとびとびだ」と、しかも「そういう現代の物理の考え方は、孔子や孟子の考え方と共通している」と書かれていたんです。高校で勉強している物理は本当の物理じゃない、本当の物理という学問は哲学的で奥が深いんだなぁと。それからもうひとつ、湯川さんが反核運動・平和運動に積極的に携わり、ラッセル・アインシュタイン宣言※をベースに科学の平和運動をすすめていて、あー科学は平和に役立てられるんだというのが大きくて。僕の場合は、実験が面白いからとかじゃないんです(笑)。小中学校の時は、理科が嫌いではなかったけれど特別に大きな存在ではなかった。僕の場合は、高校生になって、科学が人間にとってすごく意味のあるものなんだとわかって、将来理系に進む決心につながったんです。
※哲学者バ−トランド・ラッセルと、物理学者アルベルト・アインシュタインとが中心となり、湯川秀樹博士などノーベル賞を受賞した当時第一級の科学者らによって1955年に提示された核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた宣言文。
―――滝川少年は、理科の成績は良かったのでしょうか?
滝川先生:  学校の授業の成績は良かったけど、模擬テストはできなかった。高 校の先生から通信簿の成績と模擬テストの成績が同じくらいだと笑われたことがあります(笑)。 父の仕事の関係で全国を転々として、岡山、姫路、東京と転校しました。僕は、しゃべるのがすごく遅いんですよ。でも、岡山ではそんなにみんな早くないんですよ。小学校2年生の頃、黒柳徹子さんが岡山に来て、何言ってるのか全く理解できなくて、世の中にはこんなに早くしゃべることができる人がいるんだなぁと衝撃をうけました。次に姫路に転校したら、岡山とものすごく言葉が違うのでいじめられて、友達もできなくて結構厳しかったです。東京には割とすんなり溶け込めました。大学での専門は物理学でした。本当は科学史をやりたいと思っていたのですが、物理しか出来なかったので。でも大学へ入って勉強してみたら、大学の物理でも哲学なんて全然やってないんですよね(笑)。
―――理科教員をめざそうと思われたきっかけは?
滝川先生:
 大学院で左巻君(現・同志社女子大学左巻健夫教授)なんかといっしょに科学教育研究協議会(科教協)に参加するようになって、そこの先生たちはものすごく面白い実験をいっぱい持っておられたんですよ。本当に、その時の衝撃は大きかったです。ただ、その時は左巻君に連れて行かれただけだったので、教員になろうなんて思っていなくて、ちょっと覗いてみるという感じでした。マスターの頃は、教育なんか全然興味がなくて、プラズマの理論のドクターに行こうと思っていて、そのための勉強もしていたんですが。職業としても、「教師にだけはなるまい」と強く思っていました(笑)。ところが、誰かが本気で教育を変える研究をしないといけない、それを僕がやるんだと、ある時思い立ってしまったのです。

「これじゃあ日本の教育はよくならない」

―――教育には全く興味がなく、教師にだけはなるまいと思っていた滝川青年の進路をガラリと変えてしまったのは何だったのでしょうか?
滝川先生:  ある時、物理教育の研究会の案内をみて行ってみたんですよ。そこに学習指導要領を作っている方がいたんですね。その方が、学習指導要領は4ヶ月くらいで作れるんですよって言うんですよ。前の指導要領から組み直して、ほらこうやれば4ヶ月くらいでできるって。びっくりしましてね。つまり基礎研究もなしで、ただ項目の並べ替えだけで行われているということが余りにもあきらかでした。そのとき、僕は質問しました。指導要領から一回なくなっていた高校の物理の大きさのある物体の回転運動についてです。この回転運動は高校の物理ではかなり難しくて、僕も高校ではわからなくて、大学でもなかなか難しくて苦労したのに、一度指導要領から外れたものが何でまた入ったんですか、とね。そしたら「いやぁ私も知らないうちに入っちゃったんですよ」と言われましてね。指導要領を作る責任者の方がですよ。いいかげんだなーとその時は思いましたが、いまにして思えば、私が入れたんじゃなくて官僚が入れたんですと言いたかったのかもしれません(笑)。学習指導要領というのは、国の基準として一旦決まると、大きな影響力を持ちます。ちょっとでもこれから外れたら大変な言われようをします。なのに、こんないいかげんな作られ方になっている。これじゃ日本の教育は良くならないと思いました。だいたいその頃の物理の学習指導要領を作っている人は、一応物理学の仕事が終わって余生として教育をという大学の先生が中心でした。これでは駄目だ、教育を最初から本格的に研究する人が携わらなければ、と考えたんです。
―――そこでまず、はじめられた事は?
滝川先生:  大学院博士課程の時は、日本の中にある最高の授業を見て歩こうというのが目標でした。カリキュラムの基礎は、一方では自然科学があって、それをどうやって伝えるかで実験とか教材がありますね。それからどんなに一生懸命教えても生徒がのってこないと駄目で、のっても教師だけが教えたつもりになって生徒が全然理解していないこともあるので、子供の認識とか理解の研究が必要ですね。僕のドクターコースの一番の大きなテーマは、「子供の認識はどういうときに変えられるのか」でした。概念形成と呼んでいるんですけれども、科学的な概念の形成です。この研究で、僕が一番影響を受けたのは、板倉聖宣さんの仮説実験授業、高橋金三郎・細谷純さんなどの「極地方式」、玉田泰太郎さんのグループです。玉田さんは小学校の先生なんですけれども、すごくいい授業をつくられていました。先生が結論を言わないのに、子供たちがどんどん議論をして、見ていると「どうしてこんな授業になるんだろう」というくらい子供たちが発言をして、本当にみんなで「こういうふうに理解するといいんじゃないか」みたいな意見が次々とでてきて深まっていく。大学院のときは、そういう現場の中にある最高のものを見てまわりまして、そのあとの僕の仕事はそれらを理論化することでした。どうしてそういう授業が出来るのか。その人だけしかできないのか。誰でもできるようになるのか。それを研究するのが、僕のテーマでした。
―――そんな滝川先生がガリレオ工房という実験のプロ集団をつくられたわけは?
滝川先生:  実際に自分でいい授業をやろうとすると、発問が良くて子供たちがのってきても、やはり楽しい実験がないと授業としては厳しいですよね。僕は1979年に教員になって、ちょうど世間では高校が荒れて授業が成立しないような時期があって、みんなでいい授業をつくろう、またいい実験が柱として必要だと話し合って、ガリレオ工房の前身である物理教育実践検討サークルという、多分誰にも覚えてもらえない名前のサークルをやっていました。そこで第一回の例会から一緒だったのが、米村傳次朗さんです。最初の米村さんは、実験開発の名人という雰囲気ではなかった。実験の背後にある数学を教師はきちんと理解しないといけないということで、例えばブーメランの理論を難しい数式で発表したりしておられました。かくいう僕は、当時、全然実験ができませんでした(笑)。
―――カリキュラムをつくりたかったのに、ガリレオ工房というのは随分遠回りに思えるのですが?
滝川先生:  学習指導要領が無茶苦茶だと思ったのは80年代の終り頃なんですが、教育界全体が理科を削るという方向で走っていました。89年の学習指導要領で、明確に理科はもう縮小するということが示されました。このまま放置したら本当に理科がなくなるかもしれないという危機的状況でした。これは問題だということで、日本物理学会、日本物理教育学会、応用物理学会が94年に共同声明を出しました。僕も声明の作製にかかわりました。それから一年の間に、化学も生物も地学も数学も理科教育学会も、理系の主だった学会が全部同じ方向で「理科をこれ以上削ってはいけない」という声明をだしたのです。それで「理科離れ」ということが社会的な問題として浮上してきたのです。90年代に僕が考えていたのは、学校教育の中でいくら科学が大切だと叫んでもなかなか回復できない。だから、社会の中で学校教育の中での科学の大切さを訴えていこうと。そのためには、カリキュラムをつくるのをひとまず我慢して、科学の楽しさを社会に伝えることがまず第一だと。青少年のための科学の祭典も、サイエンスライブショーも、NECガリレオクラブも、PTAからの依頼も、とにかく科学イベントをいっぱい引き受けて、マスコミが「夏は科学だ」とかいうふうに取り上げてくれるくらいにしたいと。そして、ガリレオ工房の知名度が全国的になり、我々の科学を広める運動が全国的になれば、それはきっと学習指導要領の改訂にも結びつくんだと。1999年から一年間のイギリス留学を経て、現在、理科カリキュラムを考える会の活動へとつながっています。

「理想の授業、そして理科教育への熱い想い」

―――滝川先生が理想と考える教育のありようとは?
滝川先生:  本当は国の権威とか一切なしで、いろんな先生が「あの人の授業はいいよ」という人を発掘して、その人から色々教わっていくというシステムができるといいですよね。今は学習指導要領通りにやらないと駄目。実験だと、他の教科書に書いてある実験をやっても駄目。この間聞いたのは、薬剤師が学校に来て、教科書に載っていない化学薬品をひとつ残らず回収していったとかね。とにかく先生の自由度が全然ないんですよ。それ、まずいじゃないですか。いろんな教科書があり、いろんな実験が載っている。それらを全部知るだけでも教師には勉強になると思うんですよ。自分の使う教科書に載っていない実験はやっちゃいけないなんてね、何を考えているんだろうという現状です。教師が見聞を広げて、新しいことにチャレンジしながら、授業の質を高めていくということが何か禁じ手みたいな雰囲気になっています。
―――子供の科学概念がうまく形成されるツボのようなものがあれば、一言で教えて頂けませんか?
滝川先生:  一言では言えませんが(笑)。まずは子供がよく理解できていないところを教師がしっかり分かっていて、子供が自分の意見を言い、ほかの人の意見を聞く中で、「あっ間違っていた」と気がつく。そこへどうやってもっていくのかなんですよ。子供が自分で気がつけば、これはまずいから何か修正しようとします。修正しようという気がないのに、これは正しいから覚えておけといくらやっても、全く子供は受け付けない。「どうしてそうなんだろう」とか「自分の理解は間違っていたなぁ」っていう、そこへ連れて行かないと駄目なんですね。日本の中には優れた研究や実践があるので、それを学ぶことがいい授業への早道ですね。
―――滝川先生が理想とする授業とはどんなものでしょうか?
滝川先生:  夏休み前の暑い日の金曜日の5時間目とかの授業で、生徒がもう絶対のらない日なんですよ。生徒が「先生、今日は外へ行きましょうよ」なんて言ってくる。「駄目だ、ちょっとこの問題を考えよう」と言って、問題を出して考え始め
てみると、生徒が夢中になってああだこうだと議論をはじめる、実際に実験をやってみることになって、「やったぁー」なんて生徒たちが叫んでいるときに、密かに「勝った!」と思うんですよ(笑)。今の義務教育の理科の授業時間は640時間です。私の時代は1048時間でした。今の640時間というのはものすごく少ない。日本では60年代が理科の授業時間が一番多かった時期です。その時代に教員経験をされた先生方のノウハウを受け継いで次代に伝えていきたいですね。心からそう思っています 。
―――ご多忙の中、貴重な時間をインタビューに応じて頂き、示唆に富む話を聞くことができました。 どうもありがとうございました。


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